江戸時代の裏金問題をわかりやすく解説します!

政治家の裏金問題で日本は大騒ぎになっていますが、現代特有の問題ではありません。

歴史を見渡すと平安時代(桓武天皇のとき)、「賄賂(わいろ)」を禁止した記録があります。

今から約1500年前に、日本では問題になっていたのです。

学生時代に習った歴史を思い出すと「賄賂=田沼意次」というイメージが強いかと思います。

ただ、江戸時代に賄賂を受け取っている歴史上の人物は多数います。

「田や沼や 汚れる御世をあらためて 清く澄ませ白河の水」と語られ、田沼と真逆の政治をしたことで有名な松平定信でさえ、田沼に賄賂をおくっています。

その理由は、江戸幕府の政治構造、仕組みにあります。

本ページでは、江戸時代に絞って日本の裏金、賄賂の歴史をまとめてみました。

裏金と賄賂の違い

本題に入る前に「裏金」と「賄賂」の違いについて。

・賄賂とは?

汚職の一形態。主権者の代理として公権力を執行する為政者や官吏が権力執行の裁量に特別な便宜を計ってもらうことを期待する他者から受ける不正な財やサービスのこと

引用:賄賂|ウィキペディア

・裏金とは?

賄賂(わいろ)などによって動いている金銭。
経理(けいり)上、正式な出入金記録に記載せずに蓄財された金銭。

引用:裏金|ウィキペディア

「裏金>賄賂」というイメージです。

「賄賂」と言わないだけで、実質「賄賂」に当たるケースもあります。

正式な出入記録がないだけで、お金を渡した個人・団体が優遇されることも。

つまり、因果関係が認められれば「賄賂」と認定され、認められなければ「経理上」の問題として処理されます。

経理上の問題として処理したほうが、賄賂よりが印象が良い。なので因果関係が認められないように工夫されることが多いです。

江戸時代の裏金問題

江戸時代に限らず、どんな時代でも賄賂をおくる理由は明確です。

「何かしらの優遇を受けたいから」

時代特有の仕組みが足かせになって、困っているときに、お金もしくは贈り物を役人におくって優遇を受けるのが世の常です。

たとえば、江戸時代では外様大名※から役人への賄賂が横行してました。

※関ヶ原の戦い(1603年)以降に徳川家に使えた大名

徳川幕府は、政治の中枢ポストに外様大名をつけませんした。

そのかわり「加賀100万石」と言われるように、石高を多く与えることでバランスをとっています。

外様大名が幕府に反抗しないために、裕福にならないために、お手伝いと称して自費で建物の改築をさせたりしました。

このお手伝い、出費がバカになりません。(参勤交代もあるし)

そこで外様大名は、出来るだけ経費が軽くすむお手伝いになるように便宜をはかってもらおうと役人に賄賂をわたしていたのです。

水野忠邦(みずのただくに)

天保の改革(1841~43)を実施した老中筆頭「水野忠邦」、中学/高校の教科書にものってますね。

老中筆頭とは、今でいう総理大臣にあたります。

彼が役人に賄賂をおくった理由は「重要ポスト」につくためのルールが原因。

水野忠邦は九州、唐津藩の殿様でした。

唐津藩は長崎防衛の任が与えられていました。

幕府の重要な役職につくには、江戸に近い場所に領地をもつ必要がありました。

九州から江戸は遠かった。

そこで賄賂を使って領地転換を中央にお願いしたのです。

水野の裏金:ポストに得るには賄賂が必要

必死になってためたお金を殿様が賄賂に使ってしまうので、怒った家老が自殺したというエピソードもあります。

部下を犠牲にしてまで幕府の要職についた水野でしたが、その厳しい改革のため将軍に罷免されています。

酒井忠清(さかいただきよ)

酒井家は譜代の名門です。

譜代とは古くから徳川家に使えていたものを指します。

3代将軍家光の治世に老中、4代目家綱の治世に大老までつとめた実力者です。

下馬将軍とまで呼ばれた彼に、皆が賄賂をもってきます。

酒井忠清には、賄賂を正当化する持論がありました。

そもそも「老中」はじめ幕府のポストは政治的権威は高いが、金にならない。

つまり給料が安いということです。

徳川幕府の仕組みは、政治権力とお金を反比例に関係においたことに特徴があります。

政治権力は高いけど給料が安い譜代、政治権力はないけれども給料が高い外様という感じです。

具体的にいうと、老中についた人でも5~6万石が平均で多くても20万石レベル。

いっぽう外様は、前田家が100万石、島津家が73万石、伊達家が56万石と圧倒的経済格差です。

老中やるには金がかかる。交通費も自費負担。

ちなみに今の国会議員は特殊乗車券を使って新幹線にタダで乗れます。

忠清は、

自分が賄賂をもらうことで大名たちの財力調整が行われている

外様大名などに金がいかず、徳川家に謀反を起こすことを事前に防止している

と豪語します。

おそらく彼は、参勤交代の仕組みになぞらえて、この理論を確立したのでしょう。

酒井の裏金:給料の補填&徳川家を守るため(謎理論)

 

田沼意次(たぬまおきつぐ)

第9代将軍徳川家重と第10代家治の治世下で側用人と老中を兼任、約18年間幕政の中心にいました。

彼の政策の特徴は重農主義と併行させて、重商主義を実施。

株仲間※を奨励したことは有名ですが、そのさい賄賂が横行しました。

株仲間:同じ業者同士で結成した組合。販売権の独占を幕府から認められる。

田沼の裏金:特権商人からゲット

老中就任時の田沼の屋敷には、大名や商人が賄賂を持って長蛇の列を作っていました。

応接のために設けられたスペースは畳30畳分もあったそうです。

それだけ多くの人が田沼を頼って押し寄せたということ。

一般の応接室では内密の話ができないため、田沼に近い人に賄賂を渡して特別に会わせてもらった人もいるくらいです。

・老中になれたのも賄賂のおかげ?

田沼はポスト獲得のために賄賂を贈っていますが、だから側用人や老中になれたのかといえば疑わしいです。

というのも後に続く、これまた賄賂を使って老中になっている松平定信や水野忠邦とは違う点あります。

それは家柄です。

松平定信は徳川吉宗の孫にあたります。

水野忠邦は唐津藩の殿様です。

対する田沼意次は旗本※です。

※禄高(給料)が1万石未満、将軍家に謁見することを許された者

定信や忠邦が老中になったのとはわけがちがうのです。

裏金でどうこうできるレベルではないくらい身分は低い!ゆえに彼は「the成り上がり者」

 

賄賂以外の理由があると考えるのが自然でしょう。

田沼意次は、その才覚を8代将軍吉宗に気に入れられていました。

息子の家重(のちの9代目)の小姓として取り立てています。

幼いころから意次と時間を過ごしているので、信頼度は半端ないです。

家重が死ぬとき、息子の家治(のちの10代目)に、自分が死んでも田沼を重用するようにと遺言を残しています。

つまり、賄賂効果というよりも家重に愛されたからこそ老中、側用人になれたのです。

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